東京地方裁判所 平成11年(ワ)13534号 判決 1999年12月27日
原告
加村健
被告
株式会社フジクラ
右代表者代表取締役
辻川昭
右訴訟代理人弁護士
奥毅
同
妹尾佳明
同
石川一成
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求(訴状の請求の趣旨第一項には「被告は原告の勧奨退職を無効とし、原告を被告へ企画専門職として復職をさせること」と記載されているが、前段の勧奨退職が無効であることが確認されれば、原告は被告の社員たる地位を有することになるから、訴状の請求の趣旨第一項の後段は無益的記載事項であると解して摘示しなかった。これに対し、訴状の請求の趣旨第二項は勧奨退職時に企画専門職5級であった原告を現実に被告に復職させるに当たり原告を企画専門職6級に格付することを求めるものであるから、右の趣旨の請求であると解してそのまま摘示することにした)
一 原告が平成一〇年四月六日付けでした勧奨退職が無効であることを確認する。
二 被告は原告を企画専門職6級(係長心得)以上の職級として再雇用せよ。
三 被告は原告に対し金一九八〇万円を支払え。
四 被告は原告に対し平成一一年六月から本件裁判が確定するまで毎月二五日限り金四三万四九六四円を支払え。
第二事案の概要
一 本件は、被告を退職した原告が、被告に対し、平成一〇年四月六日付けでした勧奨退職が無効であるとして、勧奨退職が無効であることの確認、原告を企画専門職6級(係長心得)以上の職級として再雇用すること及び賃金として平成一一年六月から本件裁判が確定するまで毎月二五日限り金四三万四九六四円の支払を求める(前記第一の一、二及び四)とともに、原告が平成六年七月から平成七年三月まで及び平成八年三月から平成一〇年三月までそれぞれ企画専門職としての担当から外されたが、これは被告が原告に対して契約していた職場での労働と報酬を得る行為を提供するという債務の不履行を構成するものであり、また、原告が上司から不法行為を受けたこと、被告が原告を企画専門職としての担当から外して原告に仕事をさせなかったこと、原告が企画専門職としての担当から外されていた間に原告が所属していた人事部分室に対するパソコンの割当てが不平等であったこと、被告は事実無根であるにもかかわらず、原告が多数のトラブルを起こしていると判断し、その判断に基づいて原告の退職を勧奨し、原告がその具体例を挙げて説明するよう求めたのにそれを拒否したことは、いずれも原告に対する不法行為を構成するとして、債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求権に基づいて金一九八〇万円の支払を求めた(前記第一の三)事案である。
二 前提となる事実(なお、争いのない事実は、訴状、平成一一年七月一三日第一回口頭弁論期日における原告の陳述、原告の平成一一年八月一七日付け準備書面及び被告の同月一二日付け準備書面などに基づいて摘示した)
1 原告は平成二年四月被告に企画専門職として入社した。企画専門職とは被告の社員を職務内容の特性において分類した職務群の一つで、事務的又は技術的知識と経験によって事務部門又は技術部門の業務を遂行し又はこれらの業務について企画、立案、調査、研究及び設計などを行う職務をいう。原告は平成六年三月に企画専門職4級から企画専門職5級に昇級した(企画専門職の意味については書証略。原告の企画専門職としての昇級の経過については書証略。その余は争いがない)。
2 原告が入社後三か月間の実習の後に配属された先は次のとおりである(争いがない)。
(一) 平成二年七月から通信系エンジニアとして被告佐倉工場製造技術部
(二) 平成五年一一月から被告富津工場光システム事業部光部品製造部
(三) 平成六年三月から被告通信ネットワーク事業部通信エンジニアリング部(なお、この部門は同年七月にフジクラテレコム株式会社(以下「フジクラテレコム」という)として分社独立し、これに伴い原告は同社へ異動した)
(四) 平成七年三月から被告人事部FPS推進室
(五) 平成八年三月から被告人事部分室
3 原告は平成一〇年四月六日被告に退職届を提出して同日付けで被告を退職した(以下「本件退職」という)(争いがない)。
三 争点
1 本件退職は無効か。
(一) 原告の主張
本件退職は無効である。その理由は次のとおりである。<1> 原告は被告から退職勧奨されたが、その際に佐野次昭(以下「佐野」という)人事部長から退職後の中途採用のための就職活動について戦後最悪値の雇用情勢の悪化にもかかわらず原告が公共職業安定所に求職登録すれば断続的に面接が依頼され断ることが大変なくらいであり、電気機械系の大卒総合職の就職は雇用情勢にかかわらず悪くはないという情報を得たのであるが、実際にはこの情報は誤りであった。<2> 退職勧奨の際に被告から提示された原告が被告に残留した場合の条件は、原告は人事部分室のままで、企画専門職としての担当はなく、時間外手当もなく、職級の見直しもないというもので、原告が半ば退職を強制的に選択せざるを得ないような内容であった。<3> 原告は<2>のような残留条件の提示を受けたときに<1>の情報を得たので、退職を選択することにしたのである。<4> 被告が原告の退職を勧奨した理由は、原告を引き取る職場がないこと、原告が配属された職場では原告と同僚や上司との間であつれきが生じて原告の配属を拒否することが相次いだこと、原告には暴言などの言動が度重なったことであるが、原告は被告に対しこれらの具体例を明らかにするよう求めたにもかかわらず、被告はこれに応じなかったのであり、果たして退職勧奨をした理由が本当に存在したのか疑問である上、原告が職場でトラブルを起こしたと認識している事柄は別紙「トラブルおよび、上司の発言集」と題する書面に記載した事例1ないし17のとおりであるが、これらについてはいずれも相手方に非があることは明らかであって、結局のところ、原告には被告から退職勧奨を受ける理由はないにもかかわらず、退職を勧奨されたのであり、したがって、この退職勧奨が違法であることは明らかである。
(二) 被告の主張
本件退職が無効であることは争う。<1>の佐野人事部長の情報の内容は否認する。<2>のうち原告が被告に残留する場合は人事部分室に配属すると伝えたことは認め、その余は否認する。<4>のうち被告が原告に退職を勧奨した理由が、原告を引き取る職場がないこと、原告が配属された職場では原告と同僚や上司との間であつれきが生じて原告の配属を拒否することが相次いだこと、原告には暴言などの言動が度重なったこと、原告が職場でトラブルを起こしたことであることは認め、その余は否認する。
原告による退職届の提出は原告の自由意思に基づいて行われたのであり、原告の退職に当たって強迫などの違法、不当な行為は一切存しないから、本件退職が無効でないことは明らかである。
2 原告を企画専門職6級(係長心得)以上の職級として再雇用することの請求の可否について
(一) 原告の主張
本件退職が無効である以上、原告は平成一〇年四月六日以降も引き続き被告の社員であるということになるから、被告は原告を再雇用すべきである。そして、原告には被告から退職勧奨を受ける理由はなかったのであるから、被告が平成八年三月以降原告を人事部分室に配属した措置も不当であって、原告が企画専門職としての担当から外されなければ、原告は現時点においては企画専門職6級に昇級していたはずである。したがって、被告は原告を再雇用するに当たって原告を企画専門職6級に格付すべきである。
(二) 被告の主張
否認ないし争う。
3 平成一一年六月から本件裁判が確定するまで賃金として毎月二五日限り金四三万四九六四円の支払を求める請求の可否について
(一) 原告の主張
本件退職が無効である以上、原告は平成一〇年四月六日以降も引き続き被告の社員であるということになるから、原告は被告に対し平成一一年六月から本件裁判が確定するまで賃金の支払を請求することができる。平成八年の原告の賃金(基本給、生産手当及び職能加給からなり、その金額は金二五万五〇〇〇円である)と平成九年の原告の賃金(基本給、生産手当及び職能加給からなり、その金額は金二六万円である)を比較すると、その伸び率は二パーセントであるから、平成九年の原告の賃金に伸び率二パーセントを二回乗じて得られる金二七万〇五〇四円が平成一一年の原告の賃金である。原告は平成一一年には企画専門職6級に格付されるべきであり、企画専門職5級と企画専門職6級との職能加給の差額は平成八年度において金九四七〇円である。したがって、平成一一年の原告の賃金と職能加給の差額を合算した原告の賃金は金二七万九九七四円であり、賞与を四・五か月分とすると、一年分の賃金(一六・五か月分)の総額は金四六一万九五七一円となる。このほかに原告が企画専門職としての担当であれば支払われていたはずの時間外手当は一か月当たり金五万円(時間外勤務時間数を一か月当たり二五時間、一時間当たりの単価を金二〇〇〇円とする)であり、一年分は金六〇万円となる。一年分の賃金の総額(一六・五か月分)と一年分の時間外手当を合計した金額は金五二一万九五七一円であるから、この一二分の一に相当する金四三万四九六四円が原告の一か月当たりの賃金となる。
(二) 被告の主張
否認ないし争う。
4 債務不履行責任の成否について
(一) 原告の主張
原告は平成六年七月から平成七年三月まで企画専門職としての担当から外され、その間にした仕事は別紙「甲のフジクラでの諸待遇年表」の担当職務欄及び別紙「業務担当経緯、トラブルと退職勧奨の関係」の仕事の成果欄に記載したものだけであり、平成八年三月から平成一〇年三月まで再び企画専門職の担当から外されたが、被告が原告を企画専門職としての担当から外して原告に仕事をさせなかったために原告は所定の時間外手当の支払を受けられなかったのであるから、被告が原告を企画専門職の担当から外したことは、被告が原告に対し契約していた職場での労働と報酬を得る行為を提供するという債務の不履行を構成する。
(二) 被告の主張
否認ないし争う。
5 不法行為責任の成否について
(一) 原告の主張
<1> 原告は平成一〇年四月に退職するまでに上司から別紙「トラブルおよび、上司の発言集」と題する書面に記載した事例4、9ないし11、14ないし16及び18のとおりの仕打ちを受けたこと、五十嵐部長が平成九年九月二五日人事部分室の社員の給与明細を間違って第一通商の宗像某に渡してしまい開封したことなど、<2> 被告が平成八年度中に各職場で車内LAN化、メール化を進めていた際に人事部分室にはパソコンの割当てはなく、割当てを要請したにもかかわらず無視されたのであり、このように人事部分室に対するパソコンの割当てが不平等であったこと、<3> 被告は平成六年七月から平成七年三月まで、平成八年三月から平成一〇年三月まで原告を企画専門職の担当から外して仕事をさせなかったこと、<4> 被告は原告に対し退職勧奨をするに当たって原告が多数のトラブルを起こしておりその原因は原告にあると判断していたが、それはいずれも事実無根であったにもかかわらず、被告が右のとおり判断していたこと、被告がその判断に基づいて原告に対し退職を勧奨したこと、原告が被告がそのように判断した理由について被告に対し具体例を挙げて説明するよう求めたにもかかわらず、被告がこれを拒否したこと、以上<1>ないし<4>はいずれも原告に対する不法行為を構成する。
(二) 被告の主張
否認ないし争う。
6 5及び6の損害額について
(一) 原告の主張
被告による債務不履行及び不法行為による損害額は一日当たり金一万円であり、一か月三〇日として金三〇万円となるが、債務不履行及び不法行為に該当する行為はいずれも人為的故意であることなどに照らし、一か月当たりの損害は右の金額の二倍の金六〇万円となる。そして、原告が企画専門職の担当から外されていたのは三三か月間であるから、その損害の合計は金一九八〇万円となる。
(二) 被告の主張
否認ないし争う。
第三当裁判所の判断
一 争点1(本件退職は無効か)について
1 証拠(略)によれば、次の事実が認められ、証拠(略)のうちこの認定に反する部分は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。
(一) 被告は入社後の実習を終えた原告を平成八年三月までに前記第二の二2のとおり四箇所の職場(分社独立後のフジクラテレコムを含めれば五箇所の職場)に配属したが、被告人事部は各職場から原告が職場における同僚や上司との協調を保つことができないことなどに起因するトラブルが生じているので原告を受け入れ難いという内容の報告を受けており、被告人事部は各職場が原告の受入れを拒否するので原告の配属には苦慮していた。被告人事部は同年三月に原告を人事部分室に配属し、原告は人事部分室において自己研さんのためのテーマを設定して自習していた。これは被告人事部が原告を配属する適当な配属先が見つけられなかったことにより執られた措置であったが、原告は配属先が転々と替わるのは原告に対する不当な評価が是正されないためであると考えていた(書証略)。
(二) 原告は平成八年三月以降人事部分室において時間外勤務をしており、被告は原告の申告分については時間外勤務を認めていたが、同年六月一九日業務指示書により原告が行っている業務は緊急を要する業務ではないことを理由に原則として時間外業務を行わないよう指示した。原告はこれに納得せず、時間外勤務を行ったが、被告は原告の申告分の時間外勤務を認めず、同年七月分の給与において時間外手当を支払わなかった。これに腹を立てた原告は同年七月二六日に同年七月分の給与における時間外手当の未払分を督促する永田猛(以下「永田」という)人事部次長あての書面の中で永田人事部次長を「口も聞けない馬鹿」と指摘した。永田人事部次長は同年七月二六日に時間外手当に関する原告の一連の行動は会社の風土になじまないし組織人としても不適当であるので今後同じことを繰り返した場合には相応の対応をせざるを得ないことを警告した(書証略)。
(三) 永田人事部次長は平成八年一一月二七日原告の両親を訪ね、原告の両親が原告の身元保証人であったことから、原告の両親に対し原告の退職を勧奨するよう頼んだ(書証略)。
(四) 佐野人事部長は平成一〇年二月人事部分室を訪ねて原告に対し退職を勧奨した(書証略)。
(五) 佐野人事部長は同年三月三一日永田人事部次長とともに人事部分室を訪ねて原告に退職勧奨書を交付して退職を勧奨した。佐野人事部長は退職勧奨書の内容について説明したが、その際、被告が原告に退職を勧奨した理由については、原告を引き取る職場がないこと、原告が配属された職場では原告と同僚や上司との間であつれきが生じて原告の配属を拒否することが相次いだこと、原告には暴言などの言動が度重なったことなどを伝え、原告に対し退職勧奨書を受諾して退職するかどうかの回答は同年四月三日までにもらいたいことを伝えた。この退職勧奨書には、次のような記載がある。
「貴殿に対し、下記の内容により退職を勧奨します。
記
1 退職期日 1998年4月3日(金)
2 退職事由 「自己都合退職」
3 退職手当等
<1> 退職金 退職手当規程により事由を会社都合として算定
<2> 特別加算 「基準賃金1カ月」相当額
<3> 再就職支援金 基準賃金×12相当額を退職金に加算
4 退職勧奨理由
<1> 貴殿の就業可能な職場が見出せないこと。
これまで貴殿が所属した職場のいくつかにおいて、貴殿の言動に起因して上司、同僚等周囲との間に軋轢が生じ、職場の秩序が保てないとして職場責任者の多くが貴殿の所属を返上してきている。
また、他職場への転籍を検討、要請しても受諾される所がなく、当面の処置として人事部分室所属とせざるを得なかった。
<2> 就業規則13.5(出勤停止等)13.6(懲戒解雇等)に該当する言動が度重なり、且つその非を認めあるいは改めるところがないこと。
上記の理由<1>と<2>は意味するところは大きく異なるが、会社としては貴殿の将来を勘案し、これまで2年間に亙り自主的な退職を奨めてきましたが受け入れられず、ここに文書をもってあらためて勧奨するものです。
5 備考
この退職勧奨が受け入れられないときは、会社としては、就業規則に基づく手続きを執ることとなります」
原告はこの退職勧奨書に書かれた退職勧奨の理由については全く納得していなかったが、原告はこの退職勧奨書を見て原告が退職勧奨に応じなければ被告は原告を解雇するつもりであると理解した(書証略)。
(六) 原告は同年四月一日佐野人事部長に対し退職金等の総手取額を問い合わせ、佐野人事部長が四〇〇万円を超えると思うと答えると、原告は寮を退去する場合の猶予期間として一〇か月を認めること及び手取りで五〇〇万円を支払うことを申し入れた。佐野人事部長は同月二日電話を架けてきた原告に対し寮の退去の猶予期間は一か月しか認めないが、ワンルームマンションを借りる場合の六か月分の家賃に敷金、礼金を加えた金額として六ないし七万円の一〇か月分くらいを再就職支援金に加算することを考えていると回答したところ、原告は退職金等の精算金が原告の口座に振り込まれたことが確認できたら、退職の手続をしてその日付けで退職するなどと申し出た。そこで、佐野人事部長は退職に関する確認書を作成してこれを同月三日メールで原告に送信した。退職に関する確認書には、次のような記載がある(書証略)。
「貴殿が下記の内容を了承されれば、会社はその内容を誠実に履行し円満な退職手続きを執るものといたします。
記
1 退職期日 1998年4月6日(月)
2 退職事由 「自己都合退職」
3 退職手当等
<1> 退職金 退職手当規程により事由を会社都合として算定
<2> 特別加算 「基準賃金1カ月」相当額+別途援助金(5注)
<3> 再就職支援金「基準賃金×12」相当額を退職金に加算
上記3の手当て及び給与賞与等の精算金額は次のとうり
税込支給額 支給額
<1> 退職金 879,690
<2> 特別加算 866,570]4,847,800 所得税、県民税、市民税を一括控除
<3> 再就職支援金 3,198,840
<4> 給与4月分 266,570 194,144
<5> 賞与 621,200 556,845 97/10~98/3
合計 5,832,870 5,598,789←手取り総支給額
4 支払い方法 4月6日(月)に貴殿の給与振り込み口座へ振込
5 独身寮の退去について
現在、貴殿が居住する下記の独身寮につき、本年5月6日を期限として、個人負担に属する諸経費(水道光熱費等)を精算のうえ、退去するものとする。
退去日が確定し次第、人事部厚生担当宛一報すること(03-5606-1034)鍵は退去後3日以内に会社の保安に届けるか又は人事部厚生担当宛送付のこと。なお、退去までの期間中の貴殿の所有物品の管理については会社は関知しません。
対象の独身寮:フジクラグリンパーク(以下、略)
鎌ヶ谷市(以下、略)
注 転居先を確保することに伴う出費を援助する意味で上記3<2>の中に別途援助金を加算します。
6 会社に返却すべきもの
下記物品について、4月6日(月)に会社に返却すること。
*従業員証 *健康保険証 *通勤定期券
*IDカード
以上」
(七) 被告は同年四月六日退職に関する確認書に記載された手取り総支給額を原告名義の口座に振り込み、それを確認した原告が右同日被告人事部に出向いてきて退職届の「氏名」欄に氏名を自署し、「印」欄に原告の所有に係る印章を押印して被告に提出した(書証略)。
(八) 佐野人事部長は、原告から退職勧奨に応じなかった場合の原告の配属先について聞かれて、人事部分室と答えたことがある。また、佐野人事部長が原告に退職を勧奨した際に交わした原告との会話の中で学卒エンジニアの求人に関する一般的情勢が話題に出たことがある。原告が被告から退職を勧奨された平成一〇年三月ないし同年四月当時は不況のため雇用情勢は相当に悪化しており、電気機械系の大卒総合職の就職は困難な状況にあった(書証略)。
2 以上の事実が認められる。これに対し、
(一) 退職勧奨書に「この退職勧奨が受け入れられないときは、会社としては、就業規則に基づく手続きを執ることになります」と書かれ、また、「就業規則13.5(出勤停止等)13.6(懲戒解雇等)に該当する言動が度重なり、且つその非を認めあるいは改めるところがないこと」と書かれていたことは前記第三の一1(五)で認定したとおりであるが、この記載内容からすると、被告は退職勧奨書を原告に交付することによって原告に対し退職勧奨を受け入れなければ就業規則に従って原告を解雇するつもりであることを明らかにしたものと認められる。そして、退職勧奨書の記載内容が右のとおりであることからすれば、原告もこの退職勧奨書を見て被告がこの退職勧奨書を原告に交付した意味を右のとおりに理解したものと考えられるのであって、そうであるとすると、原告はこの退職勧奨書を見て原告が退職勧奨に応じなければ被告は原告を解雇するつもりであると理解したものと推認される。この推認を左右するに足りる証拠はない。
(二) 原告は、平成一一年一一月二九日付け準備書面第11号の二枚目において、原告が平成一〇年四月一日佐野人事部長に対し原告が寮を退去する場合の猶予期間として一〇か月を認めること及び手取りで五〇〇万円を支払うことを申し入れたことを否認している。
しかし、被告が平成一〇年三月三一日に原告に対してした提案は、退職金として退職手当規程により事由を会社都合として算定した金額、特別加算として基準賃金一か月分及び再就職支援金として基準賃金の一二か月分相当額を支払うというものであったのに対し、被告が同年四月三日に原告に対してした提案は、退職金として退職手当規程により事由を会社都合として算定した金額、特別加算として基準賃金一か月分相当額と転居先を確保することに伴う出費を援助する意味での別途援助金を合計した金額、再就職支援金として基準賃金の一二か月分相当額、四月分の給与及び賞与を支払うというものであり、この両者の提案の内容を対比すれば、被告は当初の提案をしてからわずか三日後には自らの提案を原告に有利な内容に修正して提案し直していること、同年四月三日の提案の内容(前記第三の一1(六))からすると、原告の基準給与は金二六万六五七〇円、原告の退職金は金八七万九六九〇円であると考えられるから、同年三月三一日の提案に係る退職手当等の総額は税込みで金四三四万五一〇〇円であると考えられ、そうすると、被告による譲歩の幅は金一四八万七七七〇円であり、同年三月三一日の提案の内容を基準とすれば、同年四月三日の提案では税込みの金額で三四・二四パーセントも増額していること、このように被告は極めて短期間に大幅に譲歩しているわけであるが、仮に原告から何らの提案もなかったとすれば、被告はいわば性急にかつ一方的に譲歩していることになるが、本件全証拠に照らしても、被告が性急かつ一方的に譲歩しなければならない事情は全く認められないこと、原告は被告による退職勧奨の理由に不満があったにもかかわらず、同年四月六日には同月三日の提案に係る税引後の金額の支払を受けて被告に退職届を提出していること、以上の経過に、原告は退職勧奨書を見て原告が退職勧奨に応じなければ被告は原告を解雇するつもりであると理解したこと(前記第三の一2(一))も加えて併せ考えれば、原告が被告に対し金額の増額等の提案をしたと考えるのが自然かつ合理的である。
したがって、原告が被告に金額の増額等の提案をしたという佐野人事部長の陳述書(書証略)における供述は信用性を有するものと認められ、前記第三の一1(六)のとおり原告が被告に対し金額の増額等の提案をしたことを認めることができる。この認定に反する証拠(書証略)は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。
3 前記際三の一1で認定した事実を前提に、本件退職の効力について判断する。
(一) 労働契約が当事者の意思表示により終了する場合としては、使用者の一方的意思表示により労働契約が終了する解雇(期間の定めのない労働契約の場合には民法六二七条。期間の定めのある労働契約の場合には民法六二八条)のほかに、労働者と使用者の合意又は労働者の一方的意思表示による労働契約の終了(民法六二七条の解約の申入れ又は六二八条の契約の解除)があるが、本件では被告による退職勧奨の結果原告が退職するに至っており、原告が退職届を提出した平成一〇年四月六日に労働契約が終了していることからすれば、本件退職は労働者と使用者の合意による労働契約の終了に当たると解される。
本件退職が原告と被告の合意による労働契約の終了であるとなると、原告の退職の意思表示に心裡留保(民法九四条)、錯誤(民法九五条)又は強迫(民法九六条)といった瑕疵があれば、その瑕疵を理由に原告の退職の意思表示は当然に無効又は取り消し得べきものとされ、その結果原告の退職の意思表示が無効とされれば、本件退職は無効となる。
(二) 本件退職が無効であることの理由として原告が主張しているもののうち、原告が半ば退職を強制的に選択せざるを得ないような内容の残留条件の提示を受けたときに、佐野人事部長から電気機械系の大卒総合職の就職は雇用情勢にかかわらず悪くはないという情報を得たので、原告は退職を選択することにしたが、実際にはその情報は誤りであったという部分(前記第二の三1(一)<1>ないし<3>)は、要するに、原告の退職の意思表示に要素の錯誤(民法九五条)があったという主張であると解される。
そこで、次の(1)ないし(3)においてこの主張について判断する。
(1) 前記第三の一1で認定した事実によれば、要するに、被告人事部は原告を配属した各職場から原告を受け入れ難いという報告を受けて原告の配属に苦慮し、平成八年三月以降原告を人事部分室に配属して自己研さんのためのテーマを設定させて自習させていたこと、永田人事部次長は平成八年一一月に原告の両親に対し原告に退職を勧奨するよう頼んだことがあったものの、被告は平成一〇年二月に至るまでは原告に対し直接退職を勧奨したことはなかったこと、被告は平成一〇年二月佐野人事部長及び永田人事部次長を介して原告に対し退職を勧奨し、同年三月三一日には原告が退職勧奨を受け入れた場合の条件を記載した退職勧奨書を原告に交付して退職を勧奨したこと、原告は退職勧奨書を見て原告が退職勧奨に応じなければ被告は原告を解雇するつもりであると理解したこと、そこで、原告は退職勧奨を受け入れる代わりに退職金等の増額と退寮するまでの期間の延長を申し入れ、被告は退職金等の増額についてはこれに応じ、退寮期間の延長についてはこれに応じないものの、その代わりに退寮後の転居先の家賃等の補てんの措置を講ずることにし、同年四月一日その旨を原告に伝え、原告はこれを了承して、原告と被告は同月三日に退職金等の振込が確認できれば同月六日をもって被告を退職することを合意し、右の合意に基づいて原告は右同日をもって被告を退職したこと、原告は被告が退職勧奨した理由については全く納得していなかったにもかかわらず、被告から退職勧奨されてからわずか七日後には被告を退職していること、以上の事実が認められる。
これらの事実によれば、原告が退職勧奨に応じた主たる理由は被告から解雇されることを避けることにあったものと認められる。
(2) 原告は、原告が半ば退職を強制的に選択せざるを得ないような内容の残留条件の提示を受けたときに、佐野人事部長から電気機械系の大卒総合職の就職は雇用情勢にかかわらず悪くはないという情報を得たので、原告は退職を選択することにしたと主張している。
佐野人事部長は、原告から退職勧奨に応じなかった場合の原告の配属先について聞かれて、人事部分室と答えている(前記第三の一1(八))が、原告は人事部分室に勤務中は原則として時間外業務を行わないよう指示されていたこと(前記第三の一1(二))からすると、原告が退職勧奨に応ぜずに被告に残留したとすれば、原告が人事部分室に配属されたままである以上は、企画専門職としての担当はなく、時間外手当もなく、したがって、職級の見直しもないということは容易に想像されるものと考えられ、そうであるとすれば、原告がそのような状況が今後も続くのであれば被告を退職した方がよいという判断をすることもあり得ないではない。また、原告が退職を勧奨された平成一〇年四月当時は雇用情勢が相当に悪化しており、電気機械系の大卒総合職の就職は困難な状況にあった(前記第三の一1(八))が、雇用情勢が右のとおりであるとしても、退職後一年も経過する前には再就職は可能であろうという楽観的な見通しを持つこともあり得ないではない。このように考えてくると、佐野人事部長が原告の主張のとおり残留の条件を提示し、原告の主張のとおり再就職の可能性に関する情報を提供したかどうかはともかくとして、原告が被告に残留した場合の状況と再就職の可能性を比較して退職するかどうかを検討した可能性はあり得るものと考えられるが、仮に原告がそのような検討をした結果退職を選択したとしても、前記第三の一3(二)で説示したことに照らせば、それは原告が退職勧奨に応じた従たる理由であるというべきである。
そうすると、仮に佐野人事部長が原告の主張のとおり残留の条件を提示し、原告の主張のとおり佐野人事部長が提供した再就職の可能性に関する情報が誤っていたとしても、それは原告が退職勧奨に応じた従たる理由について錯誤があったにすぎないのであり、そのような錯誤が退職の意思表示の要素の錯誤に当たると解することはできないから、そのような錯誤を理由に原告の退職の意思表示が無効となるということはできない。
(3) 以上によれば、原告の退職の意思表示に要素の錯誤があったという主張は採用できない。
(三) 本件退職が無効であることの理由として原告が主張しているもののうち、原告には被告から退職勧奨を受ける理由はないにもかかわらず、退職を勧奨されたことは違法であるという部分(前記第二の三1(一)<4>)については、被告が原告に退職を勧奨することができるのは原告に退職勧奨を受ける理由が存するときに限られるというわけではないから、原告には被告から退職勧奨を受ける理由はないにもかかわらず退職を勧奨されたというだけでは、その退職勧奨が違法であるということはできない。そして、退職勧奨がその態様、手続などの点から強迫と評価される場合には、その退職勧奨に基づいてされた退職の意思表示は強迫によりされた意思表示として取り消し得べきものとされるが、被告が原告に退職を勧奨した経過(前記第三の一1)に照らせば、被告による原告に対する退職勧奨がその態様、手続などの点から強迫と評価される余地はないというべきである。
そうすると、原告には被告から退職勧奨を受ける理由はないにもかかわらず退職を勧奨されたことは違法であるという主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
(四) 以上によれば、本件退職が無効であるということはできない。
4 以上によれば、原告の本訴請求のうち勧奨退職が無効であることの確認を求める部分は理由がない。
二 争点2(原告を企画専門職6級(係長心得)以上の職級として再雇用することの請求の可否)及び争点3(平成一一年六月から本件裁判が確定するまで賃金として毎月二五日限り金四三万四九六四円の支払を求める請求の可否)について
原告の本訴請求のうち、原告を企画専門職6級(係長心得)以上の職級として再雇用すること及び賃金として平成一一年六月から本件裁判が確定するまで毎月二五日限り金四三万四九六四円の支払を求める部分は、いずれも本件退職が無効であることを前提としているところ、本件退職が無効であるということができないことは前記第三の一で認定、説示のとおりであるから、これらの請求はいずれもその前提を欠いており理由がない。
三 争点4(債務不履行責任の成否)及び争点6(その損害額)について
原告の本訴請求のうち被告の債務不履行を理由に損害の賠償を求める部分は、要するに、被告には原告に時間外労働させる義務があることを前提としているものと解されるところ、本件全証拠に照らしても、被告が原告に対し原告に時間外労働をさせる義務を負っていることを認めることはできないから、この請求は、その前提を欠いており、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
四 争点5(不法行為責任の成否)及び争点6(その損害額)について
(一) 原告の主張に係る<1>ないし<4>について被告が不法行為に基づく損害賠償義務を負うと認められるためには、原告の主張に係る<1>ないし<4>の行為が事実としてその存在が認められ、かつ、民法七〇九条など所定の要件を満たしていなければならないところ、<1>については、仮に原告の主張に係る上司の行為の存在が認められたとしても、上司から不法行為を受けたからといって、そのことから直ちに被告が原告に対し不法行為に基づく損害賠償責任を負うことにはならないのであり、<2>については、原告の主張によれば、パソコンの割当ては社内LAN化、メール化の一環として行われたことがうかがわれ、そうであるとすると、被告が社内LAN化、メール化を進めようとする目的、効果などによっては優先順位を付してパソコンを割り当てることもあり得るものと考えられるから、仮に被告が原告の主張のとおり人事部分室にはパソコンを割り当てなかったとしでも、そのことから直ちに原告が配属されていた人事部分室にパソコンが割り当てられなかったことが不平等であるとはいえない上、仮に人事部分室にパソコンが割り当てられなかったことが不平等であったとしても、その当時原告が人事部分室に配属されていたというだけでは人事部分室にパソコンが割り当てられなかったことが原告に対する不平等な違法な行為であるということはできないのであり、<3>については、原告を企画専門職の担当に付けることができたことが前提となっているものと考えられるところ、原告は平成六年七月から平成七年三月まで、平成八年三月から平成一〇年三月まで企画専門職の担当から外れていたことは前記第三の一1で認定したとおりであるが、原告が平成六年七月から平成七年三月まで企画専門職の担当から外れていたのは、平成六年七月まで原告が配属されていた部門が分社独立し、原告が平成六年七月から平成七年三月まで分社独立した会社に出向していたためで、殊更に原告を企画専門職の担当から外したわけではないのであり、また、原告が平成八年三月以降企画専門職の担当から外れていたのは、各職場が原告の受入れを拒否し原告の配属先がなかったので原告を人事部分室に配属したためで、殊更に原告を企画専門職の担当から外したわけではないのであって、そうであるとすると、原告を企画専門職の担当に付けることができたにもかかわらず、被告が原告を企画専門職の担当から外して原告に仕事をさせなかったということはできないのであり、<4>については、原告の主張は、要するに、原告には被告から退職勧奨を受ける理由がないにもかかわらず被告は退職勧奨をする理由があると判断して退職を勧奨し、原告が退職勧奨を受ける理由がないことを明らかにする目的で退職勧奨をする理由があるとする具体例を挙げて説明するように求めたのに、被告はこれを拒否して退職勧奨を続けたことが違法であるというものであると解され、そうであるとすると、違法であるかどうかが問題となるのは原告には被告から退職勧奨を受ける理由がないにもかかわらず被告が原告に対し退職を勧奨したことということになるが、前記説示のとおり原告には被告から退職勧奨を受ける理由はないにもかかわらず退職を勧奨されたというだけでは、その退職勧奨が違法であるということはできないのである。
以上によれば、原告の主張に係る<1>ないし<4>については、原告の主張だけでは、被告が不法行為に基づく損害賠償義務を負うということはできない。
(二) そうすると、原告の本訴請求のうち被告の不法行為を理由に損害の賠償を求める部分は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
五 結論
以上によれば、原告の本訴請求はいずれも理由がない。
(裁判官 鈴木正紀)
別紙(略)